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2013年07月23日

スタッフの手帖 No.40(毎週月曜日更新)

「 明治生まれの祖母 」


研究員の石原絹子です。

いつも弊社ブログをご覧いただきありがとうございます。

今日は、私の祖母のプロフィールをご紹介します。



祖母は、明治生まれで小学校低学年までしか学校へ通えませんでしたが、

学習意欲が強く、運命を力強く切り拓き、人生の哲学を持っている人でした。

私は、祖母が生活を通して培った知恵や哲学を、現代の若い人たちにも伝えたくて、

祖母の生涯を紹介します。



生年月日:明治36年(1903年)生まれ。享年106歳

出身地:沖縄県石垣市字石垣

家族:娘1名・孫2名・ひ孫5名・やしゃご2名・孫婿・孫嫁 


【プロフィール】

(10歳代)

・明治36年(1903年)石垣市にて 4名兄妹の長女として生まれる。


・12歳のとき、一番下の弟の出産時に母親が他界。母親代わりとして、

 学校を中退し機織りなどで生計を立てながら、弟妹を育てる。

 残された赤ちゃんをもらい乳をしながら世話するも、1歳で他界した。


(20歳代)

・20歳、結婚。長女が誕生。 

 結婚2年後、夫が病気を患い他界。

 現金収入を得る為に、機織りなどをしながら生計をたてる。

・27歳から台湾渡りに8年間出稼ぎ。昼間は住み込みの手伝い、夜は洋裁をしながら技術を得る。

 住み込みの寮母の仕事に就いた。

 寮生の親元に手紙を書くことから、文字の読み書きの必要性を感じ、国語辞典を買って勉強を始める。


(30歳代)

・台湾から引き上げ、那覇市に引越した。

 台湾での生活で「手に職を得る」ことの重要性を感じ、ミシンを購入し技術を得て、

 むつみ橋近く(現在の沖縄県県庁近く)で洋裁店を営む。

・昭和19年(1944年)10月10日 娘と那覇市で「十・十空襲」に遭い、娘と大分県へ疎開。

 洋裁・和裁の技術を生かし、疎開先の人々の繕い物をし、御礼に食べ物をもらった。

 周りの人にもその食べ物をおすそ分けしたという。


(40~70歳代)

・昭和21年(1946年)終戦とともに、疎開先の大分県から石垣市に戻った。

 その後、那覇市三原に引越し、中古の木造一軒家を購入。
 
 三原では、マチヤグワー(商店)を営み、孫の面倒を見ながら生活した。

・お店を閉め、現在の那覇市田原に木造一軒家を新築。


(80~90歳代)

・85歳から、墨絵と書道を始める。若い頃から「筆をもつことが憧れだった」という。

 墨絵は 老人福祉センターで手ほどきを受ける。植物・風景などのスケッチを行い、

 墨絵への思いは強かった。

 墨絵の師匠の計らいで、生涯初めての墨絵展に作品を出展。

・90歳代前半まで、ひ孫の世話、保育園の送り迎えをしていた。

・98歳から施設入所。


(106歳)

・最後は、家族の希望で在宅訪問介護(毎日)を利用して自宅で看取られ、

 2009年6月30日、106歳で永眠した。



【私からみた祖母・トミばあちゃん】

・孫に教育熱心

・自分に厳しい

・柔軟性もある。

・凛としている。




スタッフの手帖 No.40(毎週月曜日更新)

▽明治生まれの祖母(左)と大正生まれの母
(1995年 92歳頃 撮影)




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Posted by コミュニティおきなわまちづくり株式会社 at 10:40│Comments(0)■スタッフの手帖
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